具体的な活動としての実践
実践とは、いうまでもなく、具体的な活動をすることである。具体的な活動をすることをとおして、人間は、自らの潜在能力を実現する内的状態を一時的に創造(enact)することができるのである(Wilber, 2002a; 2002b)。
こうした状態をくりかして経験することをとおして、最初は非日常的な状態体験として経験されていたものが、徐々に、日常的に持続性のある構造として確立されていく。このような成長の法則は、(外国語や楽器等)あらゆる技能の習得において、当てはまるものである。まず、その技能を習得するうえで必要とされる基礎を体得するために、先達により確立された「型」をくりかえして実行する。こうした活動をとおして、個人は、その技法を修得するということが意味する実際の内的状態を日常的に体験することができるようになるのである。
あまりにも浅薄に「個性の尊重」を謳う現代の風潮は、おうおうにして、「型」を倣うことが、個人の個性を抑圧することにつながるという錯覚をもたらす非常に深刻な危険性を内包している。しかし、人間の潜在能力とは、基本的に、確立された「型」を実行する過程のなかで、自己のなかに新しく醸成される内的現実として実現されるものである。それは、いわば、われわれが自らの個性として執着するものを「型」を実践する作業のなかで放棄することをとおして、そこに予期しない体験が立ちあがることを許容する作業のなかに生成するものということができるだろう。
ウィルバー(Wilber, 1999; 2000a)が指摘するように、現代における「スピリチュアリティー」とは、総じて、こうした自己の「個性」への執着を増幅させるイデオロギーへと劣化してしまっている。実際、現代において、「スピリチュアル」であるとは、「型」を実行する過程のなかで、自己を放棄・発見する、生産的姿勢を確立することではなく、むしろ、既存の「自己」を正当化するために都合のよいイデオロギーを貪る消費的姿勢を正当化することなのである。「個」としてのアイデンティティーは、構造的に、自らの存在が確固(substantive)としたものでないことを知覚しているために、そのことへの恐怖を内蔵している(Loy, 1996; Wilber, 1999)。現代の「スピリチュアリティー」は、こうした恐怖に、そうした構造的問題の解決に取り組もうとすることなく、対処しようとする。つまり、それは、自らの存在が確固としたものであるという幻想を醸成しようとする、「個」の自己増幅のこころみ(“the Atman project”)を「スピリチュアリティー」というイデオロギーを利用して援助しているだけなのである。
インテグラル段階における実践は、スピリチュアリティーというものが置かれているこうした状況を打開するために、あらためて、具体的な活動としての実践の価値を強調する。具体的な活動をすることをとおして、人間は、自らの執着を放棄するための機会を自らにあたえることができる。成長への端緒とは、自己の潜在能力を内的現実として経験する瞬間に参加すること以外にはないのである(Ferrer, 2002)。
態度としての実践
具体的な活動としての実践が、実際に、個人の生活に真に建設的な効果をもたらすことができるためには、態度としての実践が必要になる。これは、日常生活のあらゆる瞬間を成長という人間存在の原目的を十全な「注意」(mindfulness)をもって生きようとする、個人の基本的な態度ということのできるものである。
いうまでもなく、実践とは、必ずしも、具体的な活動に従事することだけを意味するのではない。それは、また、いかなる活動をするときにも、常に意識(存在)のなかに息づく基本的な態度でもなければならないのである。
確かに、意識変容のための具体的な実践は、限定された時間のなかで、ある特殊な意識状態を醸成することを目的とする。しかし、こうした実践の内包するパラドクスは、そうした特殊な意識状態のなかで開示されものが、実際には、日常のあらゆる瞬間において「常に既に」(always already)存在している事実であるということである。必然的に、こうした存在の事実は、具体的な活動としての実践に取り組んだから実現されるのではなく、存在することそのものが無条件に賦与している条件なのである。しかし、実際には、基本的な態度としての実践が欠如しているとき、こうした洞察は、具体的な活動としての実践が終了すると、すぐに忘却されてしまう。その意味で、態度としての実践は、具体的な活動としての実践の成果を日常の瞬間・瞬間に新鮮に息づくものとして統合するために、必須の基盤なのである。また、こうした基盤が存在していればこそ、日常の煩雑のなかで失われがちになる無条件に賦与されている存在の条件についての認識を蘇生するための具体的な活動をする必要性が認識されえるのである。
2種類の実践の相補的価値
インテグラル段階における実践は、これら2種類の実践を相補的なものとして認識し、その両方を同時に体現することの重要性を強調する。これら2種類の実践を重視することの価値は、現代のスピリチュアリティーをめぐる状況を鑑みると、とりわけ明確になるだろう。
上述のように、インテグラル段階における実践は、具体的な活動としての実践の価値を強調する。これは、具体的な活動が、非日常的な内的状態を醸成することをとおして、人間を日常の意識状態の束縛から開放する効果を有してからである。こうした経験をすることをとおして、人間は、日常の自己を対象化することができ、そして、新たな自己を創造するための探求作業を開始することができるのである。
しかし、自己を対象化することは、自らの存在の基盤を動揺させることでもあるために、それは、しばしば、実存的不安をもたらすことになる。その意味で、具体的な活動としての実践は、あくまでも既存の「自己」を確固としたものとして確立しようとする、人間の自己増幅のこころみを麻痺させる「危険」な取り組みといえるのである。
実際、多くの人々は、具体的な実践活動に取り組むことが内包する、こうした「危険性」を敏感に察知して、そうした活動に従事することを回避しようとする。しかし、こうした逃避は、自らはあくまでも成長という課題に真摯に取り組んでいるのだという自己イメージを溶解させる可能性を秘めている。彼らにとり、こうした自己イメージを保持することは重要な意味をもつために、自らが成長という過程において必須となる自己対象化の課題から逃避したことを正当化することが必要となる。こうしたジレンマを、多くの人々は、実践というものを「態度」として定義することをとおして解決しようとする(これは、「態度としての実践」にさえ取り組んでいれば「活動としての実践」は必要ないという姿勢に結実する)。いうまでもなく、これは、自己保全のために言葉を弄することにほかならないが、実際には、現代においては、非常に頻繁に行われている行為でもある(Wilber, 2001)。こうした状況において、実践というものを、「態度としての実践」と「活動としての実践」という、ふたつの相補的な要素をもつものとして認識することは、こうして形骸化してしまった現代人の自己変容への取り組みをその本来のありかたへと恢復することを可能にするのである。
また、これらの要素は、“do”と“be”という、人間における2種類の主要な存在の方法(ways of being)を体現するものでもある。それらは、人間の存在に構造的なパラドクスをあたえることをとおして、人間に成長への「能力」を賦与する。つまり、こうしたパラドクスの存在は、人間の内部にそれを「解決」しようとするダイナミズムを醸成することをとおして、より高度な均衡(equilibrium)の確立をめざす深化のプロセスを促進するのである。
発達心理学は、成長とは、人間が問題を解決することではなく、問題が人間を解決することであるという。つまり、われわれは、パラドクスを解決しようとこころみるなかで、逆に、パラドクスに解決されるのである(Kegan & Lahey, 2001)。その意味では、人間において、成長とは、自らのなかにパラドクスを抱擁することをとおして、それがわれわれを解決するのを許容することなのである。
成長という人間の課題に意識的に取り組もうとする統合的変容への実践において、このような成長の法則を積極的に活用することが重要となるのはいうまでもないだろう。2種類の実践への取り組みは、このパラドクスの抱擁という人間成長の核心を構成する課題への意識的な取り組みを可能とするものなのである。
自己の成長への責任能力
統合的変容への実践を可能とする必須の条件は、自らの成長に対する責任能力(response-ability)である(Leonard & Murphy, 1995)。この能力を十全に発揮することをとおして、個人は、はじめて、自らの統合的成長を実現するための計画を構築し、また、修正することができるのである。
上述のように、人間の統合的成長は、複数の領域における変容への取り組みを必要とする、複雑なプロセスである。このことは、必然的に、個人に複数の指導者を自らの判断にもとづいて活用する能力を育成することを要求する。
過去においては、自己探求のために、自己を指導者にあけわたすことが必要なことであると信じられた。そうした要求を拒否することは、しばしば、「自己」への執着として非難されたのである。しかし、そうした要求を盲目的に受けいれることが無数の悲劇を生みだすことを(例えば、新興宗教団体における数々の悲惨な事例をとおして)痛感した現代人にとり、そうした態度は、もはや、現実性をもたないものとなりはじめている。
いうまでもなく、ひとりの人間が、人間存在のすべての領域を修得することは不可能である。ある領域において、指導者として、他者の成長を促進することができるだけの能力を養うためには、膨大な訓練が必要とされる。このことは、今日において、あらゆる領域において、専門家となるために、われわれが履修しなければならない過酷な課程をみれば明らかであろう。自己を指導者にあけわたすことを美徳とした過去の発想は、ひとりの人間が導師として他者の全存在を抱擁することができると想定した、人間存在の複雑性を無視した人間観を基盤とするものなのである。
インテグラル段階における実践は、こうした人間観の限界を認識したうえで、発想されるものである。それは、個人が自らの統合的変容に取り組むうえで複数の領域における探求をする際、それぞれの領域に熟練した複数の指導者を適宜に利用することを奨励するのである。
もちろん、このことは、必然的に、成長という過酷な試練を回避しようとする人間存在に息づく強力な衝動に自らの判断にもとづいて抗うことができるだけの強靭な自己否定能力を個人に要求するものである。過去においては、指導者の発言を絶対的なものとして受容することをとおして、個人は、こうした能力を育成することなく、自己探求の作業に取り組むことができたかもしれない。しかし、そうした「贅沢」は、もはや、現代人にはあたえられていないのである。
ただ、ここで留意するべきことは、指導者を適宜に利用するとは、決して、われわれの自尊心を擽る指導者を選択的に「消費」するということではないということである。実際、スピリチュアリティーの商品化が完成した現代においては、そうした甘言をあたえてくれる「指導者」は無数にいるので、そうした「商品」を次々と利用することは簡単なことである。むしろ、ここで「指導者を適宜に利用する」という言葉で意味されているのは、人間存在を構造的に呪縛するそうした自己保全的なありかたを独力では克服することができないことを認識するときに成立する成熟した能力である。そうした能力があればこそ、個人は、真の意味で、自らの必要としている援助を認識することができ、また、指導者の過酷な要求に主体的に自らをあけわたすことができるのである。インテグラル段階における実践とは、その意味では、他者を必要とすることを痛切に認識しえる、成熟した自己認識能力を基盤とするものであるということができるだろう。統合的変容のための計画と修正は、こうした自己認識を基盤として、構築されえるものである。
自らの成長に対する責任能力とは、真の意味で自らが必要としているものを探求しつづけていく「開かれた」態度である。統合的変容への実践に取り組むうえで、自らが希求する将来像を明確にして、それを実現するための実践計画を立てることは、自己の意識を凝集して、絶えず情熱をよびおこすために重要となる。自らが真に希求するものを明確にすることは、自らのなかに潜在する能力を実現するために大きな価値をもつのである(Leonard & Murphy, 1995)。しかし、ここで留意するべきことは、こうした計画が、時として、個人が真に取り組まなければならない課題を覆い隠すかたちで構築される可能性を秘めていることである。人間の構築するあらゆる構想(計画)が、常に、現実のある領域を排除することをとおして成立するものであることを考慮すれば(Daly & Cobb, 1989/1994)、それは、いたしかたのないことかもしれない。しかし、自己変容への実践において、自らの視点が構造的に内蔵する盲点を積極的に探求しつづけることは、とりわけ重要なことになる。
実践への取り組みは、常に、実践の主体である自己(“I”)そのものを変容しつづける。結果として、それは、その実践の計画を構想したときに存在していた自己の視野の限界を克服する新しい視野をもたらすことになる。そうしたときに、過去において構想された計画が修正されるのは、自然なことであるだけでなく、むしろ、必然のことであるといえるだろう。その意味では、自らの統合的成長を実現するための実践計画を継続的に修正することができることそのものが、自己変容の実践においては、必要(integral)な構成要素であるということができるだろう。
実践計画構築のための方法
最後に、統合的変容のための実践計画を構築するための具体的な方法を簡潔に紹介する。これは、インテグラル・インスティトュート(http://www.integralinstitute.org/home.html)やインターコネクションズ(http://ikan.biz/en/quadrant.html)等の国内外の組織においてこころみられている、インテグラル思想を基盤とした先駆的な取り組みを参考にしたものである。
統合的変容のための実践は、継続的な実践をとおして、自己の変容を志向する真摯な取り組みである。こうした取り組みにコミットするうえで、あらゆるそうした取り組みにおいてそうであるように、自らが希求する将来像を構築することがたいへん重要になる。こうした将来像は、自らが創造したいと希求する内的・外的な「状態」をまとめたものである。上述したように、こうした将来像を明確化することをとおして、われわれは、日常生活に方向性をあたえることができ、そして、それをとおして、自らの意識を凝集して、絶えず情熱をよびおこすことができるのである。自らが真に希求するものを明確にすることは、自己のなかに潜在する能力を実現するために必要な作業であることが強調される。ただ、ここで注意するべきことは、将来像が、野心的なものであるのは結構だが、現実性にねざしたものである必要があるということである。
次に、現在、自らが取り組んでいる実践を確認する。まず、現在、自らが定期的に取り組んでいる実践をリストする。*4 そして、それらのなかで、最も効果と価値があると見なせる実践を明確化する。それらは、普通、今後の実践活動の構成要素として、継続して実践されるものとなる。ただ、それらの実践が継続する価値のあるものであるかどうかを検討するとき、それらが最初に明確化した将来像を実現するために重要なものであることを確認する必要となる。
現在の実践が把握できたら、そのなかに存在しているインバランスを明確化する。この活動のねらいは、現在の実践活動において、無視されている領域や強調されすぎている領域を認識することである。典型的なインバランスとしては、例えば、下記のようなものをあげることができるだろう。
- 瞑想に集中的に取り組んでいるひとは、しばしば、運動等の身体活動を軽視しがちになる。こうしたひとには、例えば、定期的なウエイトリフティングが推奨される。
- 心理カウンセラーとして「パーソナル領域」の問題・課題に集中的に取り組んでいるひとには、「トランスパーソナル」領域の活動にも取り組むことが推奨される。
- 1人称(個人の領域における成長)ばかりに取り組んでいる人には、実践の重心を2人称(主観的関係性の領域における成長)や3人称(客観的関係性の領域における成長)に移行することが推奨される。
- 他者に奉仕することが強調されすぎているひとには、実践の重心を自己の内面に対する洞察を育成する活動に移行することが推奨される。
インバランスが明確化されたら、あらためて最初にまとめた将来像をふりかえり、必要に応じて、インバランスを解消することができるよう、将来像を書きなおす。時として、われわれは、自分でも気づかないうちに、将来像を自己の現状が内包するインバランスを助長するかたちでまとめてしまう。この作業は、そうした危険性を回避するためのものである。
統合的変容への実践は、刹那的な高揚状態ではなく、段階的変容――すなわち、長期的に持続可能な成長――を志向する取り組みである。そして、そうした取り組みは、必然的に、献身的な実践を必要とする。このことは、新しい実践を付けくわえるにあたり、現実的な可能性(意欲・時間)を考慮して、ほんとうに長期的に取り組むことのできる実践を選択することが重要となることを意味する。つまり、現在の生活において、実際に自らにあたえられている時間を考慮しながら、永続的なライフスタイルの構成要素として現実的に継続できると思われるものを選択することが必要となるということである。
いうまでもなく、たくさんの実践に取り組むことは必ずしも重要ではない。少ないものでも、それが献身と誠意をもって取り組むことのできるものであるなら、たくさんのものに取り組むよりも、効果があるのである。
長期的に取り組むことのできる実践とは、基本的に、われわれが実践のプロセスそのものを楽しむことのできるものである。従って、新しい実践を付けくわえるにあたり、そうした歓び(enjoyment)を体験できると期待できる実践を選択することが大切となる。また、実践を選択するにあたり、自らのパーソナリティー・スタイルを考慮することも重要となる(すべての実践は、必ずしも、すべてのスタイルに効果的であるとは限らない)。
いずれにしても、実践を選択するにあたり、窮極的には、われわれが自己にとり最も価値があると判断するものを選択することが重要となる。その実践について確信がもてないときには、実験的に一月ほど取り組んでみることが推奨されよう。
統合的変容への実践は、個人と集合という実践活動の重要要素を尊重しようとするこころみである。こうした姿勢は、実践活動の構成要素として、実践の共同体を構築(発足・維持・発展)する活動が明記されていることにも反映されている。
上述のように、統合的変容への実践は、1人称>2人称>3人称の順序で、その重心を段階的に移行させていくが、実際には、それらの要素(1人称・2人称・3人称)は、人間存在の本質的な体験領域として、すべて段階において存在しているものである。その意味で、統合的変容への実践は、人間存在の本質的な体験領域の可能性を意識的に探求することをとおして、われわれに人間としてあることの可能性を包括的に抱擁することを可能とするこころみであるといえるだろう。そして、こうしたねらいを実現するための活動が、実践の共同体の構築活動なのである。
こうした共同体の構築活動の基盤となるのが、慈愛の精神にもとづいた、対話の実践である。統合的変容への実践における対話とは、他者を受容することであるのみならず、また、自己を受容することでもある。ここでは、他者を傾聴することをとおして、まず、他者をありのままに受けとめる作業を実践する。同時に、そうした作業をとおして自らのなかに沸きあがる経験を傾聴し、それを他者に表現する。参加者は、相互の存在を受容する過程のなかで、常に、自己の内部に立ちあがる真実を尊重して、そして、そこから他者に携わることを求められるのである(Oka, n. a.)。参加者ひとりひとりが、そこで生成する自らの体験に真実(authentic)であろうとすることをとおして、対話を、情報と情報の交換の空間ではなく、人格と人格のであい(encounter)の空間として構築するのである。それは、ひとりひとりが自己の体験の絶対性を肯定することを許容する、相互性(mutuality)の精神に貫かれた関係性を構築しようとするころみであるといえるだろう。
自己理解と他者理解は、常に、相補的に作用するものである(Torbert, et al., 2004)。そして、統合的変容の実践は、この相補的な作用を醸成する関係性という神秘的な人間体験の可能性を積極的に探求するこころみである。実践の重心の段階的発展は、こうした探求に内在する歓びに導かれるものであるということもできるだろう。
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代表的なトランスパーソナリストたちの指摘するように、(例えば、Bache, 2000; Griffin, 1989; Wilber, 2002a, 2002b)、自己変容の実践活動のなかで個人が直面する苦悩は、その本質において、人類種として人類が抱えている試練が顕現したものである。それらの苦 悩を自らのものとして抱擁し、そして、その解決のために取り組むことは、自らのいやしのみならず、種のいやしに貢献することであるとこれらのトランスパー ソナリストたちは主張する。その意味で、自己変容に取り組むとは、窮極的に、個人が、人類種の構成員として、ひとつの時代に生まれあわせることをとおし て、自らに「宿命」(destiny)として突きつけられる集合的な課題の解決に取り組む奉仕の作業であるということができるだろう。
現在、先駆的なトランスパーソナリストにより主張されているトランスパーソナル研究の新しいありかたは、人類が、今日、未曾有の危機に直面してい る事実の認識にもとづいて構想されているものであることは、まず間違いないだろう(例えば、Bache, 2000; Elgin, 2000; Griffin, 2004, 2005)。しかし、こうしたありかたが、先駆的なものでありながら、同時に、発足の瞬間から、トランスパーソナルというこころみに常に息づいていた本質 を体現するものであることをわれわれはここで確認するべきであろう。
トランスパーソナルという言葉は、「個」(パーソナル)を超えるという意味をもつものであるが、そこには、総じて、垂直的と水平的というふたつの 方向性の意識変容のありかたが示唆されている。人間は、垂直的な意識変容をとおして、意識の深層領域を認識し、そして、水平的な意識拡張をとおして、同時 代をともにする生命とのつながりを認識する。トランスパーソナルという思想を実践していくにあたり、このふたつの要素の価値を認識し、そして、それらを統 合していくことは、たいへん重要なことであるといえる。真の意味でトランスパーソナル思想を実践するにあたり、われわれは、「魂」や「霊」といわれる深層 領域を探求できるだけでなく、時代が突きつける現実を直視し、協調してそこに存在する困難をのりこえていく努力をしていかなければならないのである。
現代という危機の時代において、トランスパーソナル思想を実践するにあたり、果たしてどのようなかたちでこの課題に取り組んでいくことができるの か――こうした課題と真摯に取り組んでいくうえで、現在、インテグラル段階におけるトランスパーソナル研究の構想として提唱されている実践の方法論は、そ うした問いに対するひとつの真摯な解答といえるだろう。これからのわれわれの課題は、こうした解答を自ら生きていくことをとおして、その発展に寄与するこ となのである。
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Notes
*1 人間性心理学の基盤のうえに、展開された準備活動の結実として、the Journal of Transpersonal Psychologyが出版されたのは、1969年である。そこで中心的な役目を果たした人物として、Antony Sutich・Michael Murphy・Abraham Maslow・Stanislav Grof・Viktor Franklがあげられる(Wellings, 2002)。
*2 いうまでもなく、こうした特徴づけは、あくまでも、そのときそのときのトランスパーソナル研究の「重心」をまとめたものである。それぞれの段階において、常に、こうした特徴づけにあてはまらない例外が存在したことは、あらためて指摘するまでもないだろう。しかし、トランスパーソナル・コミュニティーが、ひとつの学術共同体として、これまでに、研究成果を共有し、そして、相互批判を基盤として向上しようとしてきたとすれば、そこには、必ず成長の根本法則である「超越と継承」のダイナミズムが息づいていたはずである。ロスバーグのモデルが、綿密な過去の調査にもとづき、この共同体に息づくそうした法則を浮かびあがらせるものであるという意味で、高く評価できるものであるといえる。
*3 ウィルバー(2000b)の指摘するように、トランスパーソナル研究は、こうしたジレンマのもと、自らの視野を狭窄化するか、もしくは、研究基準を低下させることになった。
*4 このときに、たとえば、インテグラル・インスティトュートの体験講座において指導されるように、それらの実践を「トランスパーソナル領域」・「パーソナル領域」・「身体領域」・「思想領域」、そして、「他領域」という項目を設定して、分類すると良いだろう。また、このとき、実践の頻度も明記しておく必要がある。
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