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	<title>インテグラル・ビジネス創成日記より</title>
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	<description>WordPress ME 2.2 - Capriccioso</description>
	<lastBuildDate>Sat, 25 Oct 2008 00:40:41 +0900</lastBuildDate>
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		<title>精進料理修業</title>
		<description><![CDATA[
今月末～来月はじめに参加を予定している接心（合宿形式の坐禅会）では、皆で交代で食事を作ることになっているので、精進料理を少し練習しようと思って作ってみた。
不恰好だけれど、これは五目ひりょうず。水切りした豆腐と大和芋のすりおろしを混ぜ、ささがきごぼう・人参の細切り・ぎんなんを混ぜて揚げたもの。だし割醤油をつけて食べる。要するに自家製のがんもどきなのだけれど、揚げたてはふわふわほろほろという優しい口当たりでわれながらかなり美味しい。でも、20人分作るのは時間もかかるので無理かなあ（ぎんなんの固い殻を割るのがなかなか難儀なのだ）。オーソドックスに煮物と白和え、ごまよごし等の練習をしておいたほうがよいかしらん（最近、手早くできるものしか作っていなかったので、自信がなくなっている）。
こちらのレシピを利用した。
西川玄房著　『禅寺のおばんざい　四季の膳』（女子栄養大学出版部）
 
＊「インテグラル・ビジネス創成日記」より転載
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		<title>「泥にまみれろよ」</title>
		<description><![CDATA[先日、仕事場へ向かう道すがら、駅から30分余りかかる長い道を歩いていた。 その時、ふと心に浮かんだのがこの言葉だった。
これは、井上雄彦の人気漫画『スラム・ダンク』の一節だ。自分が何とかしなければ、と思う余り空回りをしていたある選手（主人公の一人・赤木選手）が、「自分のチームには主役になれる選手が何人もいる。でも、彼らのために体を張って活躍できる場を作ってやれるのは自分しかいない」と確信して、変貌していくシーンの印象的なせりふである。
自分の立場は、チームの大黒柱だった赤木君とは全く異なる（それでも、何かしら共感できる選手がいるのがこの漫画のすごいところだ）。自分の役目についても、薄々こういう方向で了解していた面はあった。
でも、漠然と思っていたことに、しっかりした方向性を与えられたように思う。自分は夢をめったに見ないので（はなく、覚えていないだけとアートセラピストには言われるのだが）、こういう機会をとても貴重に思った。   
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		<title>ベリーダンス</title>
		<description><![CDATA[異業種交流会で仲良くなった人の紹介で、ベリーダンスの体験レッスンに行ってきた。
私は元々、フラメンコを1年、クラシックバレエを18年習っていたことがあり、踊るのは大好き。去年、レッスン中に怪我をして以来、膝に不安があるためバレエのレッスンから足が遠のいていたけれど、何か踊りはしたいと思っていた。
ベリーダンスは、クラシックバレエとは殆ど対極的だ。よく言われることだがバレエは上昇・飛翔・飛躍を目指す動きが中心であるのに対し、ベリーダンスの重心は低い。バレエはトルソ（胴体）を殆ど動かさないが、ベリーダンスは胸・肩・腰が動く動く･･･。
でも、重心の低い踊りというのもいいものだ。どっしりしていて心が落ち着く。年齢を経るに従って、自分の好みも移り変わっていっているのかもしれない。私は音楽でも踊りでも、とにかくクラシックで様式性の高いもの、高い規律を要求するものが好きだった。最近、少し、緩やかで流れるようなものにも心を惹かれている。
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		<link>http://integraljapan.net/wordpress/eri/archives/19</link>
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		<title>エミリー・ウングワレー展</title>
		<description><![CDATA[友人に話を聞いて興味を持ち、現在国立新美術館で開催中のエミリー・ウングワレー展（http://www.emily2008.jp/、7/28まで）を見てきた。
彼女は、アボリジニの女性で、伝統を受け継ぎ、コミュニティの年長者として、長年儀式をつかさどってきた。80歳になるころアクリル画を始め、80代半ば（生年不詳のため正確な年齢がわからないそうだ）で亡くなるまでの8年間に、3,000点を超える作品を残している。
彼女の作品を見ていると、大好きなパウル・クレーでさえも、頭で考えて描いた感が強く、弱々しく思えてしまう。それほど、溢れかえるような生命力。
彼女の作画風景がビデオに残されていたが、地面に巨大なキャンパスを置いてその上に坐り、下書きも何もすることなく、太い筆で迷いなく描いていく。全体を初めに構想して取り掛かるのではなく、一部ずつを描いては仕上げ、描いては仕上げしていつの間にか全体がまとまっているという手法だ。人生のいたるところに曲がり道があり、全体像が見えなくても状況に対応することが求められることが多く、最後にこれでよしと思えればよいという、いかにも女性的な生き方を象徴しているようだ。
抽象画でありながら、抽象画か具象画かという次元を超えているところが面白い。彼女にとっては、描く全ては故郷、愛するものたち、アボリジニの伝統にのっとって自分と深いつながりで結ばれたものたちだったのだ（アボリジニは、一人ひとりに、守らなくてはならない動物や植物が決められているのだそうだ。これを“ドリーミング”と呼ぶが、彼女はこの“ドリーミング”を繰り返し描いている）。
人間が、誰に教えられずとも抽象化の能力を発達させていく、という事実も興味深い（彼女は、初期にはヤムイモの茎の部分の形を描いていたが、後期には線だけになった。彼女は故郷から殆ど出たことがないため、西洋美術に触れる機会はなかった）。殆どひとつのテーマ（故郷）を、繰り返し繰り返し、膨大な量を描いていくうちに、作風はわずか数年の間に何度も変わっていった。80代という年齢になっても、変化を生み出す能力、成長していく能力を人間がもつという事実に非常に勇気づけられた。
力強さ、エネルギー、温かさ、大地とのつながり。構造的というよりも流動的。MindよりもHeartやSoulの力が強いこと。変化に富んでいて多様。それでいながらの、全体的な統一感。エミリーの絵を見ると、女性性とは何かということについて、大いにヒントが得られるように思う。
そして、他者の視点を取ることの難しさ（彼女の絵を見終わった後は、もう砂漠が生命のない荒涼の地には見えない）。描くという営為そのものが祈りになりうること。さまざまな刺激を得ることができた展覧会だった。
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		<link>http://integraljapan.net/wordpress/eri/archives/18</link>
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		<title>齋藤孝　『なぜ日本人は学ばなくなったのか』</title>
		<description><![CDATA[齋藤孝の本を読んでいて、インテグラル思想と共通する問題意識を表明している箇所があり、目を見張った。しかも「垂直」と「水平」という、インテグラル思想にとって非常に重要なキーワードを用いて。
　（前略）明治時代以降、「書生」という社会システム（慣習）や旧制高校的教養主義などを通じ、自己形成していく若者は数多くいました。自分を超えたもの、自分より大きなものに敬意を払い、それと対比して垂直的に自分を掘り下げたり、あるいはそこに向かって自分をつくっていったわけです。
　しかし今は、自分という核を持たないまま、ひたすら水平的に「何かいいものはないか」「おもしろいものはないか」と探し回っているだけ。最近の世の中はこれを「自分探し」と称していますが、こういう風潮が始まったのは一九八○年代ごろからです　（pp.16-17）（＊太字は引用者）

齋藤孝は、一般に影響力を持つ知識人（というカテゴリー自体が消滅しつつあるように思えてならないが、それはともかく）の中でも、段階的発達や階層性という視点を持っているひとだと思う。やたらと個性を有難がる風潮を批判し、「型」を繰り返し体得することの重要性を訴えるなど、インテグラル思想との共通性も高い。彼の本は、内容の濃い薄いのばらつきがあるのが難だけれど、多くの人に読まれてほしいと思う。
齋藤孝　『なぜ日本人は学ばなくなったのか』　講談社現代新書
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		<link>http://integraljapan.net/wordpress/eri/archives/17</link>
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		<title>様式の持つ力</title>
		<description><![CDATA[週末は、一泊二日でプレイバックシアターのワークショップに行ってきた。ドラマ的な要素を取り入れたワークは、インテグラル理論でも重視している&#8221;Perspective taking&#8221;を自然に実践することができるので、ITPを実践している仲間の中でも注目しているワークである。
今回、参加してみて、様式や構造の持つ力を感じた。ネガティブな感情を、時や場所をわきまえずに吐き出せば、それはほとんど暴力になってしまう。ある構造や様式に沿って表現することにより、安全に扱えるようになるのだな、ということを感じた。
私は、こういうグループプロセスの場ではなかなかネガティブな感情を打ち明けることが難しかったのだけど、この手法では、本質的な要素を残しつつ適度な抽象化が行われるので、自分の体験を生の形で共有するよりも取り組みやすく思えた。非常に興味深いワークなので、今後も研鑽を積んでいきたい。
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		<link>http://integraljapan.net/wordpress/eri/archives/16</link>
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		<title>紫陽花の季節</title>
		<description><![CDATA[ 
 
今週の火曜日、思い立って鎌倉に行ってきた（上：長谷寺、下：明月院本堂裏庭園にて撮影）。緑の多い場所に来ると、ひんやり涼しい空気が流れているのが心地よい。そして、土の上を歩くと、生き返ったような気がする。この日は、あいにく日が照っていて－－なんだか変な表現だが、紫陽花や菖蒲を観賞するには、細かい雨が降っているくらいが風情があって似合うのだ－－、菖蒲がいささかしおれ気味だったのが残念。
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		<title>家ヨガを長続きさせるには</title>
		<description><![CDATA[昨日、久しぶりに行ったヨガの教室で無料配布されていた小冊子に、「朝起きたらまずヨガマットを広げ、タダアーサナ（山のポーズ）で今日の自分の状態を確認してみなさい」ということばが載っていた。
 なるほど、と思って今朝からやってみた。タダアーサナは、両足を開いて下半身はどっしり、上半身は伸びやかに立つというごく単純なポーズなのだけれど、立位で瞑想状態に入り易いので好きなポーズ。ヨガマットを敷くという一手間をかけるだけで、つづけて練習をしてみようという気になれるのが不思議だ。
私たちが取り組んでいるITP/ILP（統合的変容のための実践）では、継続的に運動をすることを勧めているけれども、続けていくのはなかなか難しい。ITP仲間で昔陸上を専門にやっていた人から、健康と運動に関する講義を受けたことがあるけれど、身体的健康を維持するために必要な運動量は自分たちが思っている以上に多くて、驚いたことがある。毎日の生活の中で回数多く続けていくためには、自分の意志のほかにちょっとした工夫やしかけが必要だが、これはいい習慣かもしれない。
でも、今朝は、練習中、エージェントさんの始業時間に入ってしまい、携帯が鳴り始めて困ったな（こういうときはマナーモードにしているけれど、やはり気になってしまう）。もう少し早起きしよう。
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		<link>http://integraljapan.net/wordpress/eri/archives/11</link>
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		<title>心の修行としての料理－『手しおにかけた私の料理－－辰巳芳子がつたえる母の味』</title>
		<description><![CDATA[「生活・人生に勝る実践なし」－－これは、先日の”女性のためのILPワークショップ”で聞いた言葉です。きっと、多くの人にとって異論のないところだと思いますが。
 一方で、ボディ・マインド・スピリットのそれぞれの領域のエッセンスを凝縮した実践にも、極めて高い固有の価値があります。禅などはその極致ですね。先日も、仲間で少し坐ったのですが、坐禅は、日本で独自の洗練を遂げた、大変素晴らしい霊性修行のメソッドだと思います。生命をかけた修行をなさる、禅僧の方々とは比べ物になりませんが、自分のような市井の実践者にとっても、坐ることはとても意味のある修行です。
迷ったときに、戻れる基本があるというのは本当に有り難いことです。型は自分を助けてくれる。ここのところ、悩みが多くて自分ひとりではなかなかきちんと坐れなかったのですが、身体を起し、背筋を伸ばして坐っているだけで、随分癒されるものを感じました。型・作法・場の持っている力には凄いものがあります。生活の中で気づきを深めることと、基本的な型の練習は相互に補い合うものなので、どちらもバランスよく、行っていきたいと思っています。
*
生活の実践の中で、今私が特に大切にしているのが料理です。記事のタイトルで紹介しているのは、折に触れて読み返す料理書。旬の素材を使った季節の家庭料理が紹介されており、その見識、洞察の深さ、料理をする姿勢にこめられた愛情、文章の格調の高さは他の追随を許しません。少し内容をご紹介しましょう。
　”世の風潮は、いかなるわけか、だしやスープをひくことを面倒に感ずる人々が増えてきました。「生命々々」と二言目には、口にしながら、だしをひくのが億劫とは。何事を為すにも、為しとげるためには、いくらか自分を励まさなければなりません。仕事は手につけば、面倒であったものが面倒でなくなるときがくるものです。
　あるいは、人により一生面倒を感じるかもしれません。それはそれでよいと思います。そういう自分を受け入れて、為すべきことをいたしましょう。それは楽々なさる方より、もっと尊いことだと思います。”

　”煮炊きものは、ふしぎに内面的な一面が味に出るものです。人の心のやさしさ、しなやかさを最も求められる調理です。やさしさ、しなやかさは、一言で言えば受容力において認められます。料理においては、我を捨てて、素材と調理の法則に従うこと、これ以外にないと思います。全ての調理にいえることですが、とくに煮炊きもの、和えものにはこの態度が求められます。”　

読んでいると、いつの間にか背筋がしゃんと伸びてきます。家庭で料理に勤しむということが、こんなに尊い修行だったとは、この本を読むまで思い至りませんでした。この本を読むたび、心を励まされると同時に、母に対する感謝の気持ちを抱かざるを得ません。共働きで忙しかったのに、まして料理が決して好きではなかったのに（本人からそう聞いたときは本当に驚きました。おやつまで手作りしてくれるので、料理好きの料理上手とばかり思っていました）、毎日、栄養があっておいしいものを食べさせてくれました。子どものために、どんなに頑張ってくれたことか。目につかぬところで、日々、愛の実践をしている人々に、心から尊敬と感謝を捧げたいと思います。
辰巳芳子　『手しおにかけた私の料理－－辰巳芳子がつたえる母の味』　婦人之友社
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		<title>偉大さになぎ倒される至福</title>
		<description><![CDATA[今日は、”その人が選んだのではなく、音楽に選ばれた”としか思えない人の演奏会に行ってきた。
偉大な音楽に触れると、どんなに心に苦しみを抱いていても、この世界は生きるに値する、と思う。このような奇蹟を可能にしてくれる世界、神、人間への信頼を新たにしてくれるからだ。
偉大さになぎ倒されるのはこの上ない幸せだ。
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