先日、六本木で開催された畏友たちとの忘年会の席で興味深い話題がとりあげられたので、記憶に留めておくためにも、ここで簡単に紹介したいと思う。
話題は「人間はビジョンをとおして真につながりあえることができるのか?」というものである。
昨今、組織開発や人材育成の文献を眺めると、しばしば「ビジョン」(vision)のたいせつさが説かれている。
また、実際に、企業組織では、コンサルタントを招いて、組織のビジョンを策定するためのワークショップがしばしば開催されている。
しかし、つきつめて考えてみると、果たしてこうしたとりくみの価値というのはどれくらいあるのだろうか?
それに、ビジョンというものを共有することで、人間は本当に結束することができるものなのだろうか?
結論から先にいえば、個人的にはビジョンというものをあまり信頼していない。
人間には、ビジョンというものを真に共有することは、窮極的には不可能なのではないかと考えているのである。
ビジョンということばは、しばしば、「構想」や「幻想」と翻訳されるが、結局のところ、それは意識に映じる対象物である。
つまり、それはわれわれが意識の中にひとつの対象物として観察することができるものである。
しかし、あらゆる対象物がそうであるように、それはひとりひとりの認識の枠組みをとおして、意識の中に構築されるものである。
たとえ、同じ対象物を観察していても、ひとりひとりの意識には微妙に異なるものとして見えるように、完全に合意されていると思われているビジョンも、実際にはひとりひとりの中では非常に異なるものとして存在しているのではないだろうか?
それは組織のひとびとが相互に結束することができているという幻想を醸成することはできるかもしれない。
しかし、実際には、それは随分とあやしいものであり、また、それは人間存在が内包する実存的な認識上の断絶を無防備に隠蔽する知的怠慢を助長するのではないかと思うのである。
しばしば、師弟関係において、「われわれは師匠の人格に惚れるのではなく、師匠のビジョンに惚れるのである」という意見を聞くことがあるが、個人的にはこれは間違いだと思う。
結局のところ、ビジョンとは人格と緊密に関連したものであり、それを人格と切り離して信奉するというのは難しいことである。
また、たとえそれが可能であるとしても、他者が構想したビジョンをどれほど真摯に信奉しても、師匠を乗り越えることは永久に不可能であろう。
結局は、師匠の人格を信奉することになるか、あるいは、師匠のビジョンを盲目的に信奉することになるのが、オチであろう。
そうした師弟関係においては、結局のところ、師匠の二流・三流のコピーが量産されることになるだけなのである。
したがって、たとえそれがどれほどに緊密な師弟関係であろうと、師匠のビジョンを弟子が継承することは不可能だと思う。
また、もしそれができたとすれば、そのように継承されたビジョンは実質的に死んでいるだろうと思う。
その意味では、ビジョンの伝達をとおして、ひとつの精神や洞察を伝承することができるとわれわれが信じているとすれば、それはあまりにも安易であると思う。
これまで何人ものビジョナリーといわれるひとびとに接してきたが、残念ながら、その大多数は自己のビジョンを伝承するということが後継者を育成することであると勘違いしていたように思う。
そこにどれほどの善意があろうとも、結局のところ、そうしたとりくみが自己の複製をつくることにしかならないということに真に気付けているひとは、殆ど存在していないのである。
今日、日本は人材的な枯渇に苦しんでいるといわれるが、その原因のひとつは、とうの昔に機能不全をおこしている伝統的な師弟関係に、指導者といわれるひとびとがいまだに執着しているからだと思う。
実際、著書の中で非常に先進的な思想を呈示しているビジョナリーといわれるひとびとでさえも、実際の人間関係においてはこうした権威主義的な人間関係に絡めとられていることがしばしばある。
つまり、意識の内容物(“contents”)は高次のものであっても、それを収容している構造(“structure”)そのものは旧態依然としたものなのである。
それでは、あたらしい師弟関係を構築するために、われわれには果たして何ができるのだろうか?
今日において「ビジョン」といわれるものが可能であるとすれば、それは、あくまでも「型」(praxis・practice)の体系としてのビジョンでしかないと思う。
つまり、具体的な実践の方法を体系的にまとめた技術体系としてしか存在しようがないと思うのである。
結局のところ、ビジョンとは、個人が自己の意識の中に想像する妄想にすぎない。
たとえそれがどれほど偉大なものであろうと、それを他者に伝承することに果たしてどれほど意味があるというのだろうか?
また、それが、ひとりひとりの人格的な特性に応じて、容易に姿形を変えるものであることを考慮すると、ある個人の妄想を他者に伝承しようとすることなど、全く不毛なことであろう。
むしろ、真に必要とされているのは――また、真に可能であるのは――ビジョンを構想するために必要とされる「型」を伝承することだけである。
窮極的には、指導者は、その型を実践することをとおして、生徒がどのようなビジョンを見ることになるのかについては責任を負うことはできない。
彼等にできることは、ただ型を伝承することだけなのである。
しかし、人間ができることなど、所詮はそれくらいのことである。
そうしたことに気付くことができず、自己の構想した偉大なビジョンに呑まれて、自我を肥大化させた指導者がいかに多いことだろうか……。
彼等は、自己の権威を利用して生徒や弟子とのあいだに共依存関係を構築しているのであるが、そのことにたいしてあまりにも無自覚である。
彼等は弟子に信奉されることをとおして、自己の全能感を満たしており、また、弟子は偉大な師匠に帰依・寄生することをとおして、自己の空虚さや矮小さを隠蔽しているのである。
そうした関係性の中から偉大な人物が輩出されることなどありはしないだろう。
また、指導者がそうした病的な関係性しか構築することができないとすれば、真の才能を有した人材を惹きつけることなどできはしないだろう。
「ビジョナリー」といわれるひとびとが――そして、そうしたひとびとのビジョンにもとづいて運営されている共同体が――次世代の育成に関しては、無残といえるほどに失敗している背景には、こうした悪循環があるのだと思う。
結局のところ、われわれにできるのは、「型」を習得・実践して、それを他者に呈示することだけである。
その型を実践することをとおして、個人が見ることのできるビジョンとは、あくまでも個人的なものであり、それそのものは伝承に値するようなものではない。
あえていえば、それは型を実践することがもたらす副産物にすぎないのである。
それに執着して、それを伝承することに必死になればなるほどに、われわれは指導者としての資格を失うことになるのである。