2012/1/27 金曜日

「フロー」といわれるものについて……

Filed under: REFLECTIONS — admin @ 0:00:32

先日、画家として活躍する畏友と食事をしているときに、非常に興味深い洞察を共有してもらったので、紹介したいと思う。

 

巷では、「フロー状態」(flow state)や「ピーク状態」(peak state)等のことばで識られるように、いわゆる意識状態を変容させることをとおして、個人や組織の能率を向上するための方法が話題になっているが、果たしてこうした動向をわれわれはどのように理解したらいいのだろうか……?

 

わたしがこんな問いかけをすると、彼はこんな話をしてくれた。

 

*

 

絵描きとしてスタート・ラインに立つことができるためには、少なくとも1万時間の基礎練習が必要とされるといいます。

 

1日に3時間の練習をすると、1年間に約1千時間の練習を積むことができます。

 

1万時間の練習を蓄積するためには、10年程の時間が必要とされるということになります。

 

具体的には、絵画の世界においては、これは1万時間分のデッサンをするということであり、また、古典作品を徹底的に研究するということを意味します。

 

こうした訓練をしたときに、はじめてわれわれは次の段階に進むことができるのです。

 

「個性」や「創造性」や「霊感」といわれるものは、実はこうした基礎ができたときに極自然と生まれてくるものなのです。

 

当然、「フロー体験」や「ピーク体験」といわれるものも頻繁に経験されるようになります。

 

ただし、重要なことは、そうした段階に到達するとき、人間は、そうした意識の高揚や変容がそれほど重要ではないことを認識するようになるということです。

 

そうした体験は、あくまでもそれまでに蓄積された基礎能力が気紛れに生みだすものであり、それそのものとしては単なる刹那的な現象に過ぎないのです。

 

あえていえば、それは、本質とは全く関係のない、表層的な副作用に過ぎないのです。

 

日々、修練をしていれば、ときには、そうした意識状態の変容が起きることもあります。

 

しかし、それは、その人間の実力とは何の関係もないことです。

 

また、そうした意識状態の中で生みだされた作品が特別に秀れたものとなる保障などありません。

 

基礎的な訓練を十分に積んできた人間であれば、そうした意識状態の変容に執着することが無意味であることを心得ているものです。

 

*

 

こうしたことは、絵画の世界だけではなく、あらゆる人間の探求や創造の領域にあてはまることだと思う。

 

基礎能力の鍛錬――ほとんどの場合において、真に重要となるのは、膨大な時間を投じて蓄積された修練そのものなのである。

 

そして、今日、注目を集めている「フロー」や「ピーク」といわれるものは、それが自然に生み出す副産物に過ぎないのである。

 

その意味では、逆説的であるが、真に「フロー体験」や「ピーク体験」を求めるならば、われわれが先ずすべきことは、そうした非日常的な意識状態の基盤となる基礎能力の構築にとりくむことである。

 

そして、そのためにはどうしても膨大な時間が必要とされるのである。

 

それだけは、いかに時代が高速度化しようとも、バイパスすることができないものなのである。

 

 

2012/1/23 月曜日

書評 - 田坂 広志著 『官邸から見た原発事故の真実』

Filed under: Review — admin @ 5:57:54

本書は、東日本大震災後、福島第一原子力発電所の過酷事故を受けて、菅 直人政権の内閣官房参与として活躍した田坂 広志による「国民の方々へのメッセージ」の書である。あの未曾有の危機的状況の中で、個人的には、果たしてどのような思想や見識をそなえた人物が国家の意思決定に参与したのかということの一端を垣間見ることができる、非常に興味深い著作だと思う。

事故の発生以来、今日まで福島原発の事故状況に関しては徹底した情報統制が敷かれおり、その深刻さの全貌はまだ公にされていないが、こうした中で具体的にどのような問題意識が関係者の間で共有されていたのかということは、ひとりの読者として――また、ひとりの国民として――ぜひとも知りたいところである。

読者にとり、一番衝撃的なことは、最悪の場合、首都圏全域が退避圏内にはいる可能性があったということであろう(pp. 23-25)。実際には、福島原発の事故の発生後、数日中には、原子力資料情報室が、後藤 正志氏や田中 三彦氏を招聘して、インターネット上で連日懇切丁寧な状況分析を提供しており、その中でこうした「最悪の事態」がありえることは明確に示されていたわけであるが、田坂氏は、そうした認識が実は政府の関係者の中でも共有されていたことを明言している。結局、そうした最悪の可能性に関する情報は、パニックを回避するという大義のもと、最後まで国民に伝達されることなく終わるわけであるが、本書は、そうした判断がどのような思考をとおして正当化されたのかということを明らかにしている(そして、著者も一貫してそうした政府の判断の妥当性を支持している)。

本書のもうひとつの重要な貢献は、今後、日本の原子力政策の将来を確定していくうえで、検討されなければいけない7つの重要な疑問が整理されて呈示しているということである(第二部)。周知のように、野田政権の誕生後、日本の原子力政策は原発再稼働にむけて着実に動き始めているが、田坂氏は、今回の過酷事故をふまえた徹底的な調査と議論を経ることなく、強引に原発再稼働を推進することに警鐘を鳴らしている。実際、「冷温停止状態の達成」をはじめとする、あまりにも恣意的な用語の利用法にみられるように(「……そもそも、本来の『冷温停止』とは、健全な状態の原子炉について語られるべきことであり、福島原発のように、建屋も崩壊し、圧力容器や格納容器が破損している可能性があり、核燃料がメルトダウンを起こし、その形状も状態も分からなくなっている状態の原子炉に適用すべき言葉ではない…… p. 35)、政府は積極的な認識操作に邁進しているわけだが、こうした状況において、意味ある思考と討議をするためには、国民がしっかりと理論武装をすることは必須の条件であり、第二部にまとめられた7つの論点は有益な道標となるだろう。

このほかにも、本書には数多くの価値ある洞察や提言が盛り込まれているが、その核心にあるものは、著者の田坂 広志という人の真摯な情熱と使命感であろう。とりわけ、第三部(「新たなエネルギー社会と参加型民主主義」)には、今回の未曾有の過酷事故を契機として、今後、日本がどのような社会をめざして舵取りをしていくべきなのかということに関する田坂氏の構想が縷々披瀝されており、その内容に多数の読者は共感を覚えることだろう。

このように総体的には共感を抱きながら読んだわけだが、同時に田坂氏の議論に釈然としないところが散見されたのも事実である。

ひとつめは、(これは元内閣参与としての守秘義務もあるのだろうが)本書には、今回の事故対応において、具体的にどのような組織や人物がどのような発言や判断や行動をしたのかということが全く掲載されていないということである。つまり、本書は、本質的には、あくまでも著者の思想や構想を披瀝したものであり、事故対応の現場において具体的にどのような利害関係者がどのような行動をしたのかということについては全く情報がないのである。そのあたりについては、読者は肩透かしを食らうことになるだろう。

もうひとつは、事故直後から、政府から発信された誤情報や情報隠蔽に対して、田坂氏が総じて擁護的な態度をとっているということである。とりわけ、枝野官房長官の「直ちに健康に影響はない」という発言に対して、平然と御墨付をあたえていることについては、愕然とし、その神経を疑った(「国民のパニックを避けるためには、やむを得なかったと思います。それが、後で色々と批判されるのは、不本意でしょう」p. 173)。「参加型民主主義」を提唱しているといいながらも、実際にはどこかで人々の叡智を信頼していない傲慢が散見されるのである。

そして、何よりも驚いたのは、原子力工学の専門家であることを自任する田坂氏が、今回の事故をとおして、「原子力エネルギーとは、ひとたび暴れ始めたとき、これほどまでに手がつけられない危険なものであったか・・」(p. 249)と述懐していることである。原子力発電所の危険性については、これまでにも長年にわたり指摘されていることである。とりわけ、今回の福島原発において発生した全電源喪失(station black out)の可能性についてはつとに指摘されてきたところである(しかも、そうした指摘をしているのは、田坂氏のように博士号をもつ人たちだけでなく、そうした資格をもたない人たちでもあるのだ)。田坂氏のこのような発言をみると、正直なところを言わせてもらえば、そもそも、しろうとでさえ予見できることさえも予見できずにいた、このような人に原子力発電について語る資格があるのだろうかという疑問を抱かざるをえないのである。

こうした意味においては幻滅をしたし、また、「脱原発依存」を語りながらも、同時にひとりの個人として脱原発に積極的にコミットすることは一貫して躊躇する田坂氏の姿勢には、姑息なものを感じる。田坂氏は、今後の原発政策に関する判断はあくまでも国民の判断であり、自分の判断ではないという立場をとるが、ひとりの国民としての自己の立場を表明しようとはしない。つまり、あえていえば、そこには、「あくまでも自分の責任とは、国民を啓発し善導することであり、ひとつの立場にコミットしてその実現に邁進することではない」という発想が見え隠れするのである。これまで長年にわたり原子力を推進してきた人間として「身を正す」(p. 44)ことの重要性を語りながらも、一方では、そうした責任者としての自己の立場を根源的に変化させることなく、重要な判断を国民に外注して逃避してしまう田坂氏の姿勢には、ただただ幻滅するしかない……

ともあれ、本書には、今日の日本の治世層の思想的な牽引者として活躍する思想家の能力と限界が端的に示されていると思う。さまざまな意味において、興味深い著作である。

2012/1/21 土曜日

傑作動画

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2012/1/4 水曜日

必見ドキュメンタリー : メルトダウン5日間の真実

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2012/1/3 火曜日

ビジョンで人はつながることができるのか……?

Filed under: REFLECTIONS — admin @ 16:22:34

先日、六本木で開催された畏友たちとの忘年会の席で興味深い話題がとりあげられたので、記憶に留めておくためにも、ここで簡単に紹介したいと思う。

話題は「人間はビジョンをとおして真につながりあえることができるのか?」というものである。

 

昨今、組織開発や人材育成の文献を眺めると、しばしば「ビジョン」(vision)のたいせつさが説かれている。

また、実際に、企業組織では、コンサルタントを招いて、組織のビジョンを策定するためのワークショップがしばしば開催されている。

しかし、つきつめて考えてみると、果たしてこうしたとりくみの価値というのはどれくらいあるのだろうか?

それに、ビジョンというものを共有することで、人間は本当に結束することができるものなのだろうか?

 

結論から先にいえば、個人的にはビジョンというものをあまり信頼していない。

人間には、ビジョンというものを真に共有することは、窮極的には不可能なのではないかと考えているのである。

ビジョンということばは、しばしば、「構想」や「幻想」と翻訳されるが、結局のところ、それは意識に映じる対象物である。

つまり、それはわれわれが意識の中にひとつの対象物として観察することができるものである。

しかし、あらゆる対象物がそうであるように、それはひとりひとりの認識の枠組みをとおして、意識の中に構築されるものである。

たとえ、同じ対象物を観察していても、ひとりひとりの意識には微妙に異なるものとして見えるように、完全に合意されていると思われているビジョンも、実際にはひとりひとりの中では非常に異なるものとして存在しているのではないだろうか?

それは組織のひとびとが相互に結束することができているという幻想を醸成することはできるかもしれない。

しかし、実際には、それは随分とあやしいものであり、また、それは人間存在が内包する実存的な認識上の断絶を無防備に隠蔽する知的怠慢を助長するのではないかと思うのである。

 

しばしば、師弟関係において、「われわれは師匠の人格に惚れるのではなく、師匠のビジョンに惚れるのである」という意見を聞くことがあるが、個人的にはこれは間違いだと思う。

結局のところ、ビジョンとは人格と緊密に関連したものであり、それを人格と切り離して信奉するというのは難しいことである。

また、たとえそれが可能であるとしても、他者が構想したビジョンをどれほど真摯に信奉しても、師匠を乗り越えることは永久に不可能であろう。

結局は、師匠の人格を信奉することになるか、あるいは、師匠のビジョンを盲目的に信奉することになるのが、オチであろう。

そうした師弟関係においては、結局のところ、師匠の二流・三流のコピーが量産されることになるだけなのである。

 

したがって、たとえそれがどれほどに緊密な師弟関係であろうと、師匠のビジョンを弟子が継承することは不可能だと思う。

また、もしそれができたとすれば、そのように継承されたビジョンは実質的に死んでいるだろうと思う。

その意味では、ビジョンの伝達をとおして、ひとつの精神や洞察を伝承することができるとわれわれが信じているとすれば、それはあまりにも安易であると思う。

 

これまで何人ものビジョナリーといわれるひとびとに接してきたが、残念ながら、その大多数は自己のビジョンを伝承するということが後継者を育成することであると勘違いしていたように思う。

そこにどれほどの善意があろうとも、結局のところ、そうしたとりくみが自己の複製をつくることにしかならないということに真に気付けているひとは、殆ど存在していないのである。

 

今日、日本は人材的な枯渇に苦しんでいるといわれるが、その原因のひとつは、とうの昔に機能不全をおこしている伝統的な師弟関係に、指導者といわれるひとびとがいまだに執着しているからだと思う。

実際、著書の中で非常に先進的な思想を呈示しているビジョナリーといわれるひとびとでさえも、実際の人間関係においてはこうした権威主義的な人間関係に絡めとられていることがしばしばある。

つまり、意識の内容物(“contents”)は高次のものであっても、それを収容している構造(“structure”)そのものは旧態依然としたものなのである。

 

それでは、あたらしい師弟関係を構築するために、われわれには果たして何ができるのだろうか?

 

今日において「ビジョン」といわれるものが可能であるとすれば、それは、あくまでも「型」(praxispractice)の体系としてのビジョンでしかないと思う。

つまり、具体的な実践の方法を体系的にまとめた技術体系としてしか存在しようがないと思うのである。

結局のところ、ビジョンとは、個人が自己の意識の中に想像する妄想にすぎない。

たとえそれがどれほど偉大なものであろうと、それを他者に伝承することに果たしてどれほど意味があるというのだろうか?

また、それが、ひとりひとりの人格的な特性に応じて、容易に姿形を変えるものであることを考慮すると、ある個人の妄想を他者に伝承しようとすることなど、全く不毛なことであろう。

むしろ、真に必要とされているのは――また、真に可能であるのは――ビジョンを構想するために必要とされる「型」を伝承することだけである。

窮極的には、指導者は、その型を実践することをとおして、生徒がどのようなビジョンを見ることになるのかについては責任を負うことはできない。

彼等にできることは、ただ型を伝承することだけなのである。

 

しかし、人間ができることなど、所詮はそれくらいのことである。

そうしたことに気付くことができず、自己の構想した偉大なビジョンに呑まれて、自我を肥大化させた指導者がいかに多いことだろうか……

彼等は、自己の権威を利用して生徒や弟子とのあいだに共依存関係を構築しているのであるが、そのことにたいしてあまりにも無自覚である。

彼等は弟子に信奉されることをとおして、自己の全能感を満たしており、また、弟子は偉大な師匠に帰依・寄生することをとおして、自己の空虚さや矮小さを隠蔽しているのである。

そうした関係性の中から偉大な人物が輩出されることなどありはしないだろう。

また、指導者がそうした病的な関係性しか構築することができないとすれば、真の才能を有した人材を惹きつけることなどできはしないだろう。

「ビジョナリー」といわれるひとびとが――そして、そうしたひとびとのビジョンにもとづいて運営されている共同体が――次世代の育成に関しては、無残といえるほどに失敗している背景には、こうした悪循環があるのだと思う。

 

結局のところ、われわれにできるのは、「型」を習得・実践して、それを他者に呈示することだけである。

その型を実践することをとおして、個人が見ることのできるビジョンとは、あくまでも個人的なものであり、それそのものは伝承に値するようなものではない。

あえていえば、それは型を実践することがもたらす副産物にすぎないのである。

それに執着して、それを伝承することに必死になればなるほどに、われわれは指導者としての資格を失うことになるのである。

2012/1/2 月曜日

民主主義の条件

Filed under: REFLECTIONS — admin @ 17:19:05

LYING IN INTERNATIONAL POLITICS WITH JOHN MEARSHEIMER

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John MearsheimerAmerican professor of Political Science at the University of Chicago)が非常に興味深い洞察を呈示しているので、御紹介したい。

 

「わたしが云わんとしているのは、こちらが相手を信頼しているというときには、相手側は嘘をつくことができるということです。国際的な政治においては――とりわけ安全保障上の問題が議論とされているときには――嘘をつくことはとても難しいものです。というのは、そこにはそれほどの信頼はないのですから。他国のリーダーを信頼するという贅沢はそこにはないのです。……国際的なレベルにおける政治というのは、そういうものです。

しかし、ある特定の国の内部のこととなると、ほとんどの場合には、人々の間には自らのリーダーのことばに対する驚くべきほどの信頼が存在しています。そして、そこに信頼があるとき、嘘が生まれるための好機が開けてくるのです。

 

“…The point that I am trying make to you it that it is in situations where you have trust that the other side is able to lie. It is very difficult to lie in interstate politics especially when security issues are on the table because there is just not much trust. No one can afford to trust another leader… just the way politics works at international level.

But once you are inside a particular state, in most cases, there is remarkable amount of trust on the part of people towards the words of their leaders. When trust is there, that’s what opens up opportunity for lying.”

 

換言すれば、即ち、これはこういうことである。

社会の中に真実を維持しようとするならば、人々は自己の中に治世者のことばにたいする十分な不信感を抱きつづけることが必要となるということだ。

それこそが、治世者に真実を語ることを強要する必須条件となるのである。

民主主義においては、人々は自己のリーダーを信頼するという贅沢を満喫することはできないのである。

そうすることは、不可避的に社会を嘘で蔓延させることになるのである。

その意味では、「われわれは治世者を信頼することはできるのか?」という問いかけをすることそのものが愚弄なことだといえる。

Mearsheimerに言わせれば、信頼をするということそのものができないことであり、また、そのような問いかけをすることそのものが、民主主義制度下において、有権者としての責任を負うことができていないことの証左なのである。

このように考えると、今日の社会の混迷を生んでいる最大の原因とは、懐疑の精神をいだきつづけるという基本的な責任を放棄している人々の精神的な弛緩にあるのだと思う。

 

2012/1/1 日曜日

あけましておめでとうございます

Filed under: Announcement — admin @ 10:47:19

あけましておめでとうございます。2012年がみなさまにとり平安と祝福にあふれた年となることを心より御祈りいたします。

2011年はわたしたち日本人にとり歴史的な年となりました。311日に発生した東日本大震災は、わたしたちが享受してきた日常を根底から揺さぶることになりました。それは、それまであたりまえのものとして存在していた日常が、一瞬のうちに失われてしまう実に儚いものであることをわたしたちに示してくれました。

東北地方を襲った巨大津波にくわえて、今日までつづく福島第一原子力発電所の過酷事故は、この世界が人智をもって完全に制御できるものだというわたしたちの錯覚を完膚なまでに打ち砕きました。また、同時に、わたしたちは、こうした非日常的な危機的状況に対応するために必要とされる透明性ある情報公開制度が、日本においては、あまりにも脆弱なものであることを思い知らされました。とりわけ、福島原発の過酷事故をめぐっては――たとえば、speediの測定結果や炉心溶解の発生に関する情報隠蔽にみられるように――報道機関を動員したあからさまな情報操作に翻弄されつづけました。

インテグラル理論においては、合理性段階の意識構造を社会に確立するためには、全てのタブーを排してあらゆる情報を共有しながら批判的な検討や討議が公の空間でできるための文化的な条件が保障されていることが必須条件となるといいます。その意味では、今回の東日本大震災後、今日に至るまで日本国内の言論空間を支配している行動論理とは、合理性段階以前のものであるということができます。即ち、「安全神話」ということばに象徴されるように、「権威的存在」(例:治世者・官僚・識者・専門家)によって発信される「情報」を無謬のものとして無批判に受容してしまう神話的合理性段階の行動論理が、微動だにすることなく、集合意識の中に機能していることが露呈されたのです。こうした状況を踏まえると、統合的(インテグラル)な発想を可能とするVision Logic段階の意識構造が集合的に共有されることなど――たとえそれがいつか実現されるとしても――遥か遠い将来のことだといわざるをえません。

たしかに、今日、社会には高度の電子情報網が整備され、合理性段階の意識を集合規模で確立するための基盤が整備されてはじめています。しかし、それはあくまでも非常に限定的な領域における進歩であり(右下領域)、真にそれを集合的な成熟のために活用するためには、ひとりひとりの中に高次の意識構造が確立される必要があります。それは、周囲に存在する情報の真贋を見極めて、そうした洞察にもとづいて創造的な行動を主体的に展開していくための、個人としての責任能力(“response-ability”)を十全に発揮できる意識構造である必要があります。そうした意味では、昨年の大震災をとおして、わたしたちはあらためて人格的な成熟という真に本質的な課題が、これまで等閑にされてきたことを実感しました。

残念ながら、人類は意図的に自己を変革できるほどに賢明な生物ではないようです。わたしたちが変革を実現できるときがあるとすれば、それは、わたしたちをとりまく外的環境(“life conditions”)が圧倒的な変化を遂げるときであるといえます。たとえば、それは、自然というものが、わたしたちが勝手にこしらえた「幻想」や「想定」を上回る凶暴性を発揮するものであることが明らかにされるときであり、あるいは、世界というものが、わたしたちの大量消費をいつまでも維持することができるほどに豊饒なものでないことが明らかにされるときです。

わたしたちは自己を呪縛する世界観を意図的に超越することはできませんが、それが虚構であることを照明してくれる契機を謙虚に活用することはできます。しかし、また、そうした変革のための契機が効果的に作用するためには、世界からのはたらきかけを既存の世界観や行動論理の限界を露呈させるものとしてとらえるための解釈体系が必要となります。即ち、そこには、既存の自己をそのまま温存することがとりかえしのつかない悲劇につながりかねないという、健全な畏怖の感覚が体験できるような感性が息づいている必要があるのです。わたしたちの社会は、今、こうした変化への契機を活用するための感性そのものを集合規模で喪失しているように思われます。

こうした状況において、インテグラル思想に課された責任とは何でしょうか?

2011年は、わたしたちインテグラルな実践者に実に大きな課題をつきつける年となりました。あらたな年を迎えるにあたり、あらためて、自己につきつけられた課題の本質を省察して、これからの日々の生活をとおしてそれに対して回答していく決意をすることを求められているといえそうです。

本年もどうぞよろしくおねがいします。

 

インテグラル・ジャパン代表

鈴木 規夫

 

2011/12/30 金曜日

LYING IN INTERNATIONAL POLITICS WITH JOHN MEARSHEIMER

Filed under: REFLECTIONS — admin @ 17:24:04

 

LYING IN INTERNATIONAL POLITICS WITH JOHN MEARSHEIMER

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“…The point that I am trying make to you it that it is in situations where you have trust that the other side is able to lie. It is very difficult to lie in interstate politics especially when security issues are on the table because there is just not much trust. No one can afford to trust another leader… just the way politics works at international level.

But once you are inside a particular state, in most cases, there is remarkable amount of trust on the part of people towards the words of their leaders. When trust is there, that’s what opens up opportunity for lying.”

 

An astute observation. In order to guarantee that truths prevail in society, people are responsible to maintain sufficient amount of distrust towards the words of the leaders for it is precisely that that will compel the leaders to say truth instead of lies. In democracy, we cannot actually afford to trust our leaders as that will opens the opportunity for corruption of culture with lies.

 

In that sense, it is a completely confused attitude to pose the question “can we trust our leader?” because we cannot afford to, and posing such a question by itself is the proof of our failure to fulfill our democratic responsibility to maintain distrust.

2011/12/26 月曜日

書評 「なぜドイツは脱原発、世界は増原発なのか 迷走する日本の原発の謎」 クライン 孝子著

Filed under: Book Review — admin @ 13:16:03

書評

 

なぜドイツは脱原発、世界は増原発なのか

迷走する日本の原発の謎

クライン 孝子

海竜社

 

福島第一原子力発電所の過酷事故を受けて、国内では脱原発にむけた運動が顕在化しはめているが、これまでのところ、政財官学をはじめとする多様な領域の関係者による根強い抵抗に直面して、立往生しているようである。こうした状況の背景には、『原発の深い闇1 & 2』(別冊 宝島)にまとめられているように、「原子力村」といわれる、産業構造の隅々にまで張り巡らされた利権共同体が存在しているわけだが、同時に我々が認識すべきことは、原子力産業というものが、20世紀の歴史を通して、国境を超えたものとして世界各国の政策に隠然とした影響をあたえてきたということである。当然のことながら、今後、日本の原子力政策を策定していくうえでも、我々は、そうした外的勢力の直接的・間接的な干渉を受けることになる。そうしたなかで賢明な意志決定をしていくためには、原子力産業というものが、これまでにどのような歴史的な文脈の中で発展してきたのか、そして、そこにどのような深層的な病理を内蔵しているのかを俯瞰的に把握しておくことが重要となろう。原子力発電という産業が内蔵している病理とは、短絡的に日本的な問題に還元できるものではなく、20世紀以降、人類を集合的に呪縛しているものなのである。この著作は、そうした鳥瞰図を提供してくれるものといえる。

 

たとえば、福島の過酷事故のあと、世界各地では、脱原発にむけた流れが先鋭化するどころか、むしろ、原発建造にむけた政策ほとんど変わることなく堅持・強化されている。こうした動向の背景には、果たしてどのような国際的な思惑や利権が存在しているのだろうか? また、そうした動向を正当化するために、報道や識者を動員して、どのような認識操作が展開されているのだろうか?

 

こうしたことを把握することなしには、日本人は「世界は脱原発ではなく、いっそうの原発推進にむかっているのだから、それに乗り遅れはいけない……」というメッセージを活用した心理操作にだまされて、再び思考停止状態に陥らされてしまうことになる。

 

実際、本書にも解説されているように、各国は、福島の過酷事故をいかにして新たなビジネス・チャンスに結びつけていくかという戦略的な発想にもとづいて(例:廃炉ビジネス)、官民一体となって、次なる手を打ちはじめている。当然のことながら、今後の日本の原子力政策も、そうした外圧の下で策定されていくことになるわけである。

 

本書には、こうした問題について探求をするうえで、足懸りをあたえてくれる洞察が数多く掲載されている。原子力発電の技術的な問題に関しては、既に小出 裕章・田中 三彦・後藤 政志等による優れた著作が存在しているが、本書は、そうした書籍とは異なる独自の立場から、原子力産業の現状と今後に洞察をもたらしてくれる作品である。一読を御薦めしたい。

2011/12/25 日曜日

櫻井 よしこのインタビュー

Filed under: REFLECTIONS — admin @ 2:15:47

吉田 照美 ソコダイジナトコ

http://www.joqr.co.jp/soko/

 

櫻井 よしこのインタビューが掲載されている。

 

非常に理知的・合理的に議論を展開するひとで、とりわけ、安全保障問題については共感を覚えることが多いのだが、原発問題に関しては、彼女の意見は総じて的を外していると思う。

 

問題の性質そのものが本質的に彼女の器を凌駕するのだろう。

 

彼女の主張は非常に単純である。

 

即ち、日本の技術は非常に優れているのだから、福島原発の過酷事故を慎重に研究をし、そこから教訓をまなびとり、さらなる技術的な進歩を遂げることができれば、安全な原子力発電所を建造することができる――というものである。

 

つまり、世界に存在するあらゆる問題とは、人間の合理的・技術的な知性をもつて完全に解明・対処することができるものであるという、発達心理学が「合理性段階」と形容する発達段階の信念体系にもとづいた,

至極単純な主張なのである。

 

20世紀の人類の思想的探究は、人間の認知能力(思考・感情)そのものが構造的(生得的)な限界や偏見に絡めとられており、そこには不可避的に盲点がはいりこむことをあきらかにした。

 

しかし、合理性段階は本質的にそうした現実と真に直面することができない。

 

また、合理性段階の発想は、世界を観察するときに自身が立脚している認識の枠組に適合しない情報を――無意識の内に――大きく歪曲・排除する傾向にある。

 

櫻井氏の主張はそうした発想を典型的に体現したものである。

 

理路整然と主張を展開しているにもかかわらず、それが現実と乖離した机上の空論に響くのは、それが巧妙に不都合な現実を歪曲・排除していることをわれわれが嗅ぎとるからである。

 

人間の探求精神に信頼を置いて、原子力発電所の安全管理や核廃棄物の処理問題さえもが窮極的には解決可能な問題であると説く、その人間に対する信頼はあまりにもnaïveである。

 

また、何かというと「日本は技術大国」であると反射的に主張するのは、今日、急速に悪化する日本の精神的・技術的な地盤沈下を無視した、完全に思考停止的な発想である。

 

こうしたnaïveさこそが、原発の安全神話をこれほどまでに流布させてきたのである。

 

つまり、そこには肥大化した全脳感がぬきがたく息づいているのである。

 

櫻井氏の語り口は気品と誠実なものであるために、往々にして、われわれはそれが傲岸なものであることを看過してしまう。

 

今日、われわれに要求されているのは、表現の表層的なあらわれかたではなく、その表現を深層的に規定している構造を見極めることである。

 

まさにそうした時代の要請にこたえることに失敗しているからこそ、われわれはいまだに技術信仰という過去の宗教に呪縛されつづけているのである。

 

合理性段階の思考はしばしば人間主義的な思考と形容される。

 

人間の成長と進化への可能性を信頼する思考である(「人間は、真摯に失敗からまなびつづけることをとおして、進化・成長しつづけることができる」という発想)。

 

しかし、彼等は、「人間に対する信頼」を大義として掲げることで、結果として、将来世代の福利を博打の対象としていることを自覚しない。

 

つまり、人間の能力の限界を真に認識していないために、本質的には、問題解決に失敗したときの可能性を考慮しないのである。

 

端的なはなし、あらゆる鋭意努力にもかかわらず、原発に関連する課題や問題を解決することができないことが判明したとき、われわれは解決不可能な負の遺産を将来世代にわたすことになるのである(たとえば、膨大な使用済核燃料というかたちで)。

 

また、合理主義段階の思考は往々にして「人間を信頼すること」と「人間の能力を信頼する」とを混同する。

 

人間存在が本質的に内在させている価値は無条件の信頼に値するものであるかもしれないが、人間の能力には限界があり、決してそれは無条件の信頼に値するようなものではない。

 

このふたつを混同することで、彼等はケン・ウィルバーのいう「カテゴリー・エラー」(category error)を冒しているのである。

 

こうしたエラーは、21世紀を舵取りしていくうえで、潜在的に致命的なものとなりえるものである。

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